アンティーク・珍しいピアノ

昭和型ピアノ(河合楽器製作所)


  


かつて、日本でもピアノは手作りで製作されていた時代がありました。
EASTEINイースタイン、FLORAフローラ、MATSUMOTOマツモト、NISHIKAWAニシカワ、OHHASHIオーハシ、等々、
名は知られていませんが、先人技術者の努力と創意を今に伝えるピアノたちです。
エムパレスは、そんな日本のピアノを後世まで伝える活動を行っています。

【S.MIKIピアノ】

今回は、資材不足だった昭和初期(推定80年前)に製作された、小さなピアノの修復についてお話したいと思います。

<1> ピアノは、世代を超えて

修復中のピアノピアノの背丈は腰の高さまでしかなく、まるで玩具のような小さなピアノ。
依頼人は、店先に置かれていた、この古風で可憐なピアノの魅力に「惹かれた」のだという。
このピアノの云われ、経緯は全く不明だか、昭和一桁台の製品に間違いないだろう。
ピアノ内部に山積したホコリの数々が、放置されたまま歳月を経たことを物語っている。
弾き手を失ったピアノは、鍵盤も動かず、ただ、ひっそりと時代の流れだけを醸し出している。
平成の世になって、依頼人の手によって見出されたピアノに今、
新しい命が注ぎ込まれようとしている。

<2> 出た!松島トモ子!!

ピアノは、エムパレスに運ばれ、修復作業が開始された。
ピアノ内部は虫にかじられて散乱し、鍵盤の奥にはホコリが堆積していたため、一日かけての大掃除となった。
また、鍵盤の奥から、雑誌の切抜き写真が見つかった。「松島 トモ子」さんと、 「原節子」さんという方らしい。
麦茶のTVコマーシャルでお馴染みの「松島 トモ子」であるが、これは、お眼めパッチリの子役であった頃の写真らしい。
年代物のピアノであることがわかり、益々期待が高まるのであった。

虫にかじられたピアノ部品清掃 前・後原節子&松島トモ子
S.ミキピアノ(三木佐助)Miki Piano


S.MIKI
ブランド名:ミキ ブランド所有者:三木楽器 製作:河合楽器製作所
高さ:1m7cm (キャスター含む)深さ:55cm。A1-c4(64鍵)。 A1- g♯ covered unichord a-c steel unichord
河合楽器製作所創立時(昭和2年)製造「昭和型ピアノ」と同型

昭和型ピアノ(ミキピアノ)修復作業

部品解体修復作業弦の交換古く錆びた弦
この昭和型ピアノは、武蔵野音楽大学楽器博物館にも展示されている。
博物館で、たまたまこれと全く同型のピアノを見つけたとき、私はとても驚いて「あっ!」と声をあげた。
このピアノの「兄弟」を見つけたような気がして、とても嬉しかった。
昭和型ピアノはとても小さなピアノ。
部品を新品に交換すれば楽だけれども、内部部品全てがミニサイズだから、新品の部品が合わない。
結局、細かい部品ひとつひとつ手作業で修復を進めて行く。 弦も全て張り替えた。
とても気の遠くなる作業。頑張れ、頑張れ。
ついに完成。
ピアノはピカピカに磨かれ、明るくて優しい音色が響くようになりました。
2ヶ月間、その美しい音色に魅了され、愛着をもって修復してきましたが、
修復を終え、立派になったミキピアノは、新たな持ち主の所へ届けなくてはなりません。
さようなら、ミキピアノ。
この、鍵盤が動かなかったピアノが、生き延びてこられたのは、
このピアノが人々に感動を与え、愛され続けてきたからに違いありません。
どうか、次の世代にも感動を与え、愛され続けるピアノであって欲しいと願います。
これからも、私は多くの「愛され続けるピアノ」を救うために、努力したいと思います。

調律磨かれたハンマー

<補足説明>日本のピアノ史

 日本が長い鎖国を解いて明治維新を迎えた頃、日本に西洋文化が急激に押し寄せてきた。 
明治四年、岩倉具視、伊藤博文らが率いる使節団と共に、5人の女子留学生が渡米し、本格的なピアノ教育を受けた後、帰国。 明治16年には外国人接待所として「鹿鳴館」がオープンし、連日のようにパーティーが催され、ピアノやオーケストラの演奏が流れていた。 また、上流階級の婦人のたしなみとしてピアノを習い始める者もおり、今日においても日本のピアノ人口に女性が占める割合が多いのは、この時の風習が続いているといっても過言ではないのかもしれない。
やがて、学校教育音楽を取り入れようとする気運が高まり、明治12年文部省管轄の「音楽取調掛」が設置され、後に滝錬太郎などを輩出したものの、ピアノ演奏が出来る日本人は皆無であるどころか、ピアノは超高級品であった。

山葉 寅楠(ヤマハとらすく)とオルガン
 明治20年7月のある日、静岡県浜松市では唯一、浜松小学校に設置されていた舶来物のオルガンが故障し、修理出来る人がいなかったため、医療機器の修理等、手先の器用さで評判だった山葉寅楠に修理を依頼したところ、たちどころに修理を成功させた。 山葉はオルガンの国産化に成功すれば「商売になる」と考え、舶来物のオルガンを図面に写し取り、オルガンの国産化に成功したのである。

国産ピアノの始まり
 いくつかのオルガン工房がピアノ部品を輸入し、ピアノを組み立てていたものの、山葉は、アメリカへ視察に行き、帰国後の1900年(明治33年)主要部品の国産化に成功し、初の国産ピアノを完成させたのである。

河合小市(カワイ小市)と昭和型ピアノ
 「山葉風琴製造所」を開いていた山葉寅楠(やまはとらすく)のところへ、車大工の息子で手先が器用な河合小市(かわいこいち)が入所(明治30年、小市11歳)。「音を出す機械を作るそうな」。小市の才能を知り、入所を推挙した人がこう言ったとき、少年は好奇心で目を輝かせました。明治33年、山葉楽器製造所(ヤマハ)で完成した第一号の国産ピアノは、アクション部分、つまり、ピアノ心臓部のメカは、輸入品でした。 当時は海外の技術も公開されておらず、どうしてもアクション部分を作れずにいたのです。山葉寅楠は、国産のアクションの開発という難題を、河合小市に任せます。小市のアクションを使った純国産ピアノが完成したのは、明治39年。日本の楽器製作の大きな前進でした。 やがて、小市は独立を決心し1927年(昭和2年)に河合楽器研究所を設立。
 小市氏を慕って集まった技術者とともに、必至と予想される日本楽器との摩擦を避ける意味から、標準的なピアノ(88鍵)と競合しない、64鍵の小型のアップライトピアノ「昭和型」を完成させた。翌年にはグランドピアノの製造を開始し、4年には河合楽器製作所と改称。小市の名声を知る楽器販売所が次々と取引を希望して業績は年々増大。昭和4年、これに目をつけた大阪の三木楽器(山葉販売代理店)が河合の「昭和型」ピアノを販売しようとしたところ、山葉からクレームがあり、
S.MIKI(三木佐助)ブランドとして名を変え販売を開始することとなった。以降河合楽器は、ヤマハとともに日本の2大楽器メ−カ−として競い合いながら、質の高い楽器を生み出していきました。


エムパレスが修復した珍品ピアノについて
アップライトピアノ「昭和型」

山葉アップライトが500円〜1200円だった当時、350円という破格の値段で発売し、天才、河合小市の作ったピアノということもあり大きな反響を呼んだ。
金350円也5オクターブ、セルロイド鍵盤、黒塗外装、高三尺八寸、幅一尺五寸、長三尺八寸、重量三十貫、総鉄骨 三弦ワイヤ

参考文献
日本のピアノ100年(前間孝則著、草思社)、浜松市観光課資料、河合楽器資料、三木楽器資料


【昭和型ピアノ】

河合楽器製作所製作、昭和型ピアノ(昭和4〜15年頃製造?)

 「MINI PIANO」というロゴのある昭和型ピアノ。上欄記載のミキピアノと同類の小型ピアノ。 傷だらけの外装を補修し、アクション破損部分の部品交換を行う。 戦争の足音が迫っている昭和初期において、資材不足の中でも、先人達が知恵を出して製作したであろう、このピアノが現在も大切に所有されていたのは、奇跡と言えるだろう。

日本における初期のピアノは、部品を海外から輸入して組み立てていた為、大変高価なものだった。一方、 この昭和型ピアノは、当時の河合楽器が独自に製作していたようで、部品が国際規格と異なっている。その為、部品交換は現代ピアノと互換性が全くないので、破損した部品(ワイヤー等)を製作するところから修復作業が行われた。

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